デヴィッド・ボウイ訃報に寄せて

 

デヴィッド・ボウイが亡くなった。享年69歳。

 

ジョー・ストラマー、ジョーイ・ラモーン、ルー・リードなどなど……これまでにもリアルタイムでその訃報に直面してきた好きなアーティストはいたが、なかでも今回はかなりショックを受けた。それぐらい自分の愛聴してきた洋楽ロックのなかでもボウイは特別な存在だった。

 

病気・入院といった報道があったにもかかわらず、なぜかボウイには「死」という生々しいものとは無縁のようなイメージを勝手に抱いていただけになおさらだ。

 

1990年、東京ドームのライブで最後に演った『ロックンロール・スーサイド』に鳥肌たったことが思い出される……。 

 

遺作となった最後のアルバムはじめ1990年代以降も優れた作品を発表し続けていたが、やはり私がもっともよく聴いていたのは、主に1970年代の作品。

特に『世界を売った男』『ジギー・スターダスト』『ハンキー・ドリー』『アラジン・セイン』『ステーション・トゥ・ステーション』『ロウ』『ヒーローズ』『スケアリー・モンスターズ』の8作……結局1970年代~1980年までの作品のほとんどだ。

 

私はどちらかというと、あるアーティストやバンドを駄作も含めて愛するということはせず、つまり「◯◯のファン」というものはなく、作品単位で良いと思ったものだけを聴いてきたつもりだ。そんなかでボウイは異例とも言えるぐらいその全キャリアを通じて好きな、あるいは重要作と感じる作品が多いアーティストだった。

 

それほど彼はアルバムごとに「その時点での人間“デヴィッド・ジョーンズ”をアーティつ“デヴィッド・ボウイ”」として自ら対象化し作品化することに成功してきたアーティストなのだと思う。

 

今は、そんな彼が癌との闘病のなかで、死を覚悟しながらつくったであろう最後のアルバム『★(ブラックスター)』をじっくり聴き直してみようという気持ちでいる。

 

 

突然の訃報に思わず「何か書き留めておきたい」との思いで、とりとめもなく書き連ねました。

 

「丸見えよりチラリズムの方が興奮する」は大ウソ

 

性的なものはどれだけ陽の目にかざしていいのか。 - チャイ



この記事には共感するところがあった。

「“エロ”をオープンな場で大ぴらに楽しむ自分たち」を、殊更強調する人たちが僕は苦手だ。

“性”でも“エロ”でも“下ネタ”でも何でもいいが、そういったものを開けっぴろげにすることが「健全」で、隠す方が不健全

という物言いがある。

これに関しては否定はしない。まるで「見てはいけないもの」「言ってはいけないもの」のように蓋をする必要はないと思う。

しかし、上記の記事に対するはてブコメントにも書いたが、エロをエロとして楽しむ場合、そこにある種の閉鎖性や密室性が求められると思うのだ。

簡単に言ってしまえば、10人や20人といった大人数で昼日中から猥談したところで、そこにいる全員が“エロ気分”を満喫できるわけがないということだ。

たとえば夜中、2、3人ぐらいのごく親しい間柄の者たちだけで繰り広げる猥談こそ“エロ”として盛り上がるというものだろう。

だいたい、「“エロ”をオープンな場で大ぴらに楽しむ自分たちを、これ見よがしにアピールするヤツら」に限って、

「丸見えの全裸より、パンチラなど、ある程度隠されたうえでのチラ見えの方が興奮する」

なんてことを言う。

ここにも、そいつの本音ではなく、「“エロ”にも“ワビサビ”を求めるオレってイケてる」という単なる自己アピールしか感じられない。

 

誰を意識してるのか知らないが、エロ談義のときぐらい、カッコいいフリをするのはやめてもらいたいものである。

それがそいつの本音の欲情ポイントかも知れないじゃないか!と言うなら、簡単な具体例を挙げよう。

一人暮らしの男がある日、仕事から帰ると自宅のソファの上にキレイな女性が寝ていたとしよう。

パターンA「その女性は服を着ていて、ミニスカートの裾が少しめくれ、パンツがチラっと見えている」

パターンB「その女性は全裸で寝ている」

僕は断言する。現実にこんな場面に我々男性が遭遇したら、100%全員が全員、パターンBの方が目が釘付けになると。
上述の「丸見えよりチラリズムの方が興奮を掻き立てられる」なんて言ってるヤツも絶対、パンチラ状態で寝ている美女より全裸で寝ている美女に出くわした方が、ドキッとするに決まっている。

だから、

「丸見えよりチラリズムの方が…」なんてのは大ウソなのだ。

こっちが電話対応中に横から口出してくる上司ってバカなんだろうか?

 

以前勤めていた会社で、会社にかかってきた顧客からのクレーム電話を取って対応していると、クレームらしき電話と察した上司が横から

「誰からだ?」

「何て言ってるんだ?」

「かなり怒ってるのか?」

などと、電話対応中の僕に話しかけてくることがよくあった。

 

この上司に限らず、そういう人の心当たりがある人も意外といるのではないだろうか。

 

この人たちは何を考えているのだろう?

ただでさえお客さんからのクレームでテンパっており、失礼のない受け答えをしようと必死なところに、上司から横でやいのやいの言われて、それにまで受け答えできるわけがなかろう。

 

 

「人それぞれ、好きなようにすればいい」が許せない人たち

 

中学生のとき、午後からの授業が、市内の郷土史資料館を見学する課外授業になったときのことだ。

 

見学を終え、教室に帰ってきた我々に、先生から宿題が出された。

 

「今日の資料館見学で、感じたこと、考えたことを、いつも使ってる各人の連絡帳に書いて、明日提出しなさい」。

まあ、いわばレポート提出だ。

 

この宿題が言い渡されて、この日は下校となったのだが、教室の掃除当番で残っていた僕を含むメンバーの中の一人の女子がこんなことを言い始めた。

 

「そういえば、明日提出する感想文、何文字ぐらい書けばいいのかな?」と。

 

すると一人の男子がこう返した。「先生、(文字数については)何も言ってなかったし、何文字でもいいんじゃない?」。

 

僕はこの意見に大いに賛成であった。仮に先生がある程度の文字数を想定していたのだとしても、そのことを伝えなかった以上、非常に分量の少ないレポートを提出した場合、「もうちょっと書くことあるだろ」と小言を言われることはあっても、少なくとも「先生の指示を無視した」ことにはならない。レポートを書くのが面倒くさい僕としては、その方が都合がよいのだ。

 

はじめに疑問を投げかけた女子とそれに答えた男子の間では、こんな会話が続けられた。

「何文字でもいいってさ……、じゃあ、○○くんはどれぐらい書くつもりなの?」

 

「そうだな……。オレは(連絡帳の)半ページぐらい埋めればいいと思ってるけど」

 

「半ページって1ページの半分?それって少なくない?せめて1ページは埋めた方がよくない?」

 

「そうかな……」

 

横でこの会話を聞いていた僕はこの女子に苛立ちを感じ始めていた。

「そう思うんなら、オマエは1ページしっかりと埋めてくればいいだろ!文字数指定されてないんだから、他の人が半ページ分しか書かなかろうが、どうだろうが、当人の自由だろ!」と心のなかでつぶやく僕。

 

ところが、ここであろうことかこの女子はとんでもない「余計なこと」をしてしまうのである。

 

「やっぱり…先生に(望ましい文字数を)聞いておいた方がいいよ。私、聞いてくる」。

 

こうして、彼女は職員室へと向かっていった。

そして結果的に最低限の文字数が指定されることとなってしまい、このことは、非常時用の連絡網で、クラスの全員に伝えられた。

 

職員室から帰ってきたこの女子の話しぶりによると、どうやら先生は、「おぉ、文章量か。そうだな…、まぁ、少なくともノート1ページ、できれば1ページ半は書いてきてほしいな」と言っていたようだ。

 

「ほら、みろ。先生だってオマエに言われるまで、特にきちんと文字数指定なんて考えてなかった様子じゃないか」と、これまた内心つぶやく僕であった。

 

もちろん、もしあのまま「文字数は自由」と解釈して、少ない分量のレポートを提出していたら、先生からの評価が下がり、たくさん書いてきた生徒の方が評価が上がっていたかも知れない。

しかし、そんなことは承知のうえだ。たとえ、「先生が文字数指定をしなかったのだから、文字数についてとやかく言われる筋合いはない」とはいえ、手抜きのレポートで正当に評価してもらおうなんて、そんな虫のいいことは中学生ながらに考えていない。低評価覚悟での手抜きレポートなのだ。

低評価されるかも知れないのがイヤな人は、しっかり分量のあるレポートを書けばいい。それだけの話ではないか。

 

それなのに、この女子が要らぬ確認を先生にしてしまったがために、低評価覚悟の手抜きレポートで済ませようとしていた者を含めた全員に、「ノート1ページ分以上」という、余計なルールが課せられることになってしまったわけである。

 

このときのこの女子のような、「人それぞれが好きなようにすればいい」「各人が自己責任において判断すればいい」という状況・状態をなぜか嫌い、なぜか「全員に統一したルール」を設定しなければ気が済まないタイプの人間というのは、大人になってからも結構目につく。

 

つづく

 

回転寿司店におけるフライドポテトやら鶏の唐揚げやら

 

ファミリー向けの回転寿司チェーン店などではよく、

寿司ネタ以外に、アイスクリームやら、プリンやら、

そして、フライドポテトやら鶏の唐揚げやらが

皿にのって回っている。

 

もちろん、ファミリー向けだから、小さいお子さんによろこんでもらおうと用意されてるメニューであろう。

 

しかし、子供連れではない、比較的若いグループ客やカップル客でも、

フライドポテトや唐揚げの皿を取ってる人が結構いる。

 

いや、別にいいんだけどさ……

 

回転寿司って基本的に

「あんまり外食に大金つぎこめないけど、たまにはお寿司食いたいな」

ってときに、お手頃価格で「寿司食いたい」という願望を充たしてくれるところ

というのが一番の存在理由なんじゃないの?

 

フライドポテトなんか、ファミレスでもハンバーガー店でも食えるじゃない?

回転寿司店に来たときぐらい、フライドポテトなんか食ってる余力があるんだったら、その分少しでもマグロやらウニやら、寿司ネタを堪能すればいいのに…と、貧乏性の私は思ってしまう。

 

一度はプロ野球の一軍入りというステージにまで上がった人が「番組制作AD」って、割にあわないと思う

 

最近テレビでよくやっている「戦力外通告をされたプロスポーツ選手のその後」系ドキュメンタリー番組を先日観ていた。

 

そこで紹介されていたうちのひとり山本徹矢さんは、高校からドラフト5位でロッテに指名を受け、投手として入団。そしてプロ3年目の終盤には一軍からお呼びがかかった。

 

1軍の試合で中継ぎとして起用され、好成績を残すも、この年のシーズンオフ、練習中に肩の痛みを覚え、1軍離脱。

 

故障から復帰し、再び二軍での調整を開始したときには、全盛期のような威力ある球は投げられなくなっており、実戦での登板の機会を与えてもらうことができず、やがて戦力外通告を受ける。その後、トライアウト挑戦などを経て、気持ちに整理をつけた彼はプロ野球生活引退を決意する。

 

ユニフォームを脱いだ彼は元日本ハムファイターズの投手だった武田氏に仕事を紹介してもらう。

 

武田氏が彼に持ってきた仕事の話は、テレビ番組制作会社のADであった。

 

「全く未知の世界ですが、やってみます」

彼は第二の人生の生業として、その仕事に挑戦することを決めた。

 

いや~納得いかん!

言うまでもないことだが、少年時代から中学、高校と本格的に野球に取り組んできた選手の中で、プロ野球の世界に入れるのはほんの一握りである。そしてその中から一軍入りを認められるのも、これまたごく限られた選手だけだ。

 

彼はその、非常に狭き門を通過することのできた、“特別な人間”の一人なのである。

 

そのような、ある分野において、最もレベルの高いステージまで一度は足を踏み入れることができた彼の、次なる仕事がテレビ番組制作会社のADって……。

 

もちろん、この仕事を紹介した武田氏に文句があるわけではない。武田氏は、同じ元プロ野球選手として、少しでも多くの元プロ野球選手が充実した第二の人生を歩めるようにと、紹介できる働き口へのパイプづくりに、本当に日夜努力されていることだと思う。

 

そんな武田氏をもってしても、彼に紹介できる仕事がこれだったというわけだ。

 

もちろん、番組制作ADだって立派な仕事でバカにしたものではないが、番組制作ADって、「学生時代は勉強もそこそこに、ほとんど遊びまわってました」というような、日本のそこらじゅうにいる若者でも就ける職業ではないだろうか?

 

野球の世界でプロの一軍まで上り詰めるという、特別な経歴を持つ彼が、第二の仕事としてそのような職に就かざるを得ないという状況が、どうにも納得できないのだ。

 

スポーツの世界でほんの一時でも一流のレベルまで達した人は、そのスポーツの道を断念した後、もうちょっと特別視されて、もうちょっと優遇されていいのではないかと思えてならない。

 

「ごちそうさま」と言わないことより黙って料理の写真撮ることの方が“ぶしつけ”

 

「料理の写真を勝手に撮るな!」 レストランに撮影を禁止する権利はあるか? (弁護士ドットコム) - Yahoo!ニュース

 

上掲のこの記事に対するTwitterの反応を見ていると、

 

「めんどくせー飲食店があるもんだな」
「へ~、イヤな料理人もいるんだ。気をつけなきゃ」
「写真を撮られて何が困るんだ?」

といった声が多いことに驚いた。

 

つまり、
「飲食店で料理の写真撮るぐらいフツーのことじゃん」
「そんなフツーのことにいちいち目くじら立てる料理人や料理店経営者はなんて度量が狭いんだ」

という感覚の人が多いということだろう。

 

確かに、お金を払っている以上、出された料理はもはやお客が占有しているとも言えるし、ましてや著作権法などを持ち出すのは無粋な話かも知れない。

 

しかし、僕は「料理の写真ぐらい黙って撮らせろや」「人前に出してる以上、写メで撮るぐらい、つべこべ言うなよ」という感覚の方が、抵抗を感じてしまう。

 

おそらく、僕のこの感覚は古臭いオヤジの感覚なのだろうとは思う。

 

今の多くの人にとって「写メを撮ること」は「特に大意はない」ことであり、「いつでもどこでも気軽に撮って当たり前」なのであろう。

 

しかし、古い感覚の人間の中には、写メであろうがデジカメであろうが、「撮影」=「その目的は何?」と、若干構えてしまう人もいるのだ。

 

そして、そういう人間にとっては、一言の断りもなくいきなりパシャリとするのは「失礼」「不躾」と感じてしまうのである。

 

「飲食店とその客」という関係性とは全然違う話になるが、「写メぐらい、いつでもどこでも気軽に撮って当たり前」という感覚の人も、たとえばもし自宅に招待した友人が、黙っていきなり自宅の装飾品や出してあげた飲み物を写メで取り出したら、「いや、別にいいんだけど、オレん家なんだから、一言あっていいんじゃない?」という気持ちにはならないだろうか?

 

提供した料理を客が写メなどで撮っているのを見たときの飲食店の料理人も、その延長線上の自然な感情としての、「別にいいけど、勝手に撮るのはちょっと失礼だろ」だと思うのだ。

 

ましてや、飲食店の料理も、客が注文しお金を払うものではあるが、店内という店の責任者が管理・管轄する空間内でいだだく以上、出された料理も店の一部という捉え方もできる。

 

「料理の写真を勝手に撮るな!」という物言いで重要なのは「撮るな」ではなく、「勝手に」の部分だろう。

 

「何の断りもなく、黙ってパシャパシャと写メを撮るのはちょっと不躾だろ」という感覚の人も世の中にはいるのだということを理解したうえで、

 

「友だちに見せたいんで、写メ撮っていいですか?」
「個人的にブログに残しておきたいんで、写真撮りたいんですけど…」

 

と、撮影前に一言声をかけるのが、常識的なマナーではないかなと思う。

 

飲食店で食後に「ごちそうさま」を言わずに黙って出て行く人に対して、「何なの?あれ」と不愉快に感じる人も多いようだが、僕にはそれ以上に、何も言わずにさも当然のように平気で写メを撮る行為見ると、時と場合によっては「不躾だな」と感じてしまう。

 

しかし、やはりこれは、写メを撮ることが日常的な習慣となっていないオジサンの堅苦しい考え方であって、「そんなことでいちいち了承得ろなんて、“繊細チンピラ”かよ」と思われてしまうのだろうか。